思考はルールというキッカケの元において自由に羽ばたく

「自由」というものは良い響きだ。

 

なんとなく心が晴れやかな気分になる。

 

しかし時々思う。「自由とは究極の縛り」なのではないかと。

 

 多くの人間は「自由にやってよい」と言われると基本的に思考が止まり、悩んだ結果どうすれば良いか相談することが多い。

 

例えば「絵を描いて」と言われたら、何を書くか悩む人が多いのではないだろうか?そもそも人物画なのか風景画なのか、対象は何なのかと考えられる選択肢が多くなりすぎる。※ちなみに行動経済学の有名なジャム実験によると選択肢は8-9個を越えると選べなくなるらしい

 

そこで必要になってくるのがルールであり、ルールを適切に設定することで思考が進展しやすくなる。

 

例えば「男性の絵を描いて」というルールを設定すれば各々が想像する男性の絵を描くだろう。

 

ここで重要なのが「求めているものに合致するのに最低限必要なルールだけを設定する」ということである。

 

たとえば、女性の絵を求めているのに「男性の絵を描け」というルールは方向性が適切ではない。

 

そしてルールを設定しすぎると、これまた思考が停止する。

 

「20代でオフィスでデスクに座ってMacBookをいじっている眼鏡をかけた色白で金髪の男性を描け」などとルールを設定しすぎれば出来る絵は想像通りのものでしかないだろう。

 

つまり事業をドライブさせる際に、組織側からの観点としてはいかに「最小で最大の自由を提供出来るルールを設定できるか」によって思考が自由に羽ばたけるかを左右する。

 

そして、これが実現する必要条件が「そもそも上手に絵を描けるポテンシャルを持っているか」ということである。

 

成果に結び付く自由を実現させるためには「思考のキッカケを与えるルール」と「上手に絵を描ける人」がなければ、難しいだろう。