外野からブラックと言われても自分たちが楽しければ、それはノイズなんだと思う

ブラック企業=労働時間が長い、給料が低い、とかそんなイメージをおおよそ持つ。

 

確かに客観的に見れば、良い企業に見えないのだろうが、この話はMECEではないと思う。

 

世の中には労働時間が長くて給料が平均より低くても幸せそうに働いている人たちが一定数いる。

 

もちろん労働時間が長くて給料が低くて、辛そうに働いている人たちもいる。

 

両者の違いはどこで生まれるのだろうか?

 

個人的には、

 

ブラック企業=心理的安全を担保しようとしない企業

 

だと捉えている。

 

ここでいう心理的安全は広義の意味で用いている。

 

人の心理的安全は「一定の生活水準が保てること」「自分の居場所があること」「自己成長の機会があること」などといった要素によって担保されると私は考えているが、一番厄介なのが「人によって心理的安全の構成要素が違う」ということである。

 

だから、この問題はややこしい。多種多様な価値観が存在する現在社会において、そもそも全員がイエスと言える制度を作るのはほぼ無理だと思う。

 

少し話は変わるが、経済学において「居住地理論」という話がある。ある地域は税金が少ない代わりに公共サービスの質も低い、もう1つの地域は税金は高いが公共サービスの質も高い。そうすると人々は各々の志向に合う居住地を選択していき、最終的にはそれぞれの価値観に合う人たちのコミュニティが形成されるというものである。

 

前に企業選択と宗教選択は似ているという記事を書いたが、結局は自分の心理的安全を満たす要素の多い会社を人は選んでいる。だからこそ、そこで心理的安全を確保している人たちに対して「ブラック」とレッテルを貼るのはずれていて、当人たちからすれば「ホワイト」であると思うし、少なくともニュートラルだ。

 

そして、当然ではあるが人はその時々によって趣向が変わり、心理的安全の構成要素の項目や比重も変化する。だからこそ転職を多くの人が選択する

 

昔はホワイトと感じていても、自分のステータスによってブラックにも変わる。これもまた経営層からしたら頭を抱える問題である。

 

よって企業は本質的に全ての人にとってホワイトであることは無理である。しかし、心理的安全を提供しようと試行錯誤することは出来る。

 

心理的安全についての思考を止め、心理的安全をないがしろにして、企業としての唯一の価値の提供を止めた時から真のブラック企業への堕落はスタートするのだと思う。