コストから考える性善説と性悪説

仕事において考えなければいけないのが、成果や結果に対して、どれだけコストがかかるかということ。

 

どんなに良いアウトプットをしても、コストがそれに見合わなければ、良いアウトプットだったと言われないことが多い。

 

ここでいうコストとは、どれだけのリソース(人、金がメイン)を投下したかということである。

 

このコストを考える時に多くの場合で金というリソースは考えられているか、人というリソースについては軽視されることがほとんどである。

 

さらに人というリソースを考えられたとしていてと、それは実際に行動する人のリソースにのみ帰結していることがほとんどで、それ以外の人のリソースについて考慮されていることはほとんどない。

 

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それ以外の人に関するリソースとは、ほとんどの場合がマネジメントとか言われるものである。

 

ここではマネジメントを簡易的には「正しい方向に導くこと」と「意思決定を行うこと」として話していく。

 

このマネジメントという介入は少なからず組織には必要なのだろうが、いつも思うのが「これってなくて上手く進むのであればいらなくね?」ということである。

 

自律出来れば少なくとも、ほとんどいらないだろう。

 

では、なぜマネジメントということをやるのだろうか?

 

簡単に言えば、「どれだけ人を信頼できるか」に依存するのであろう。逆に信頼できない人に対しては、マネジメントという行為にリソースを投下するであろう。

 

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ここで言いたかったのは、リソースをどれだか投下するかという意思決定に「信頼」という定量としても定性としても捉えることが出来る概念が影響を与えるということである。

 

さらに少し話は飛ぶが、この「信頼」という概念を個人や組織が捉えようとするときには「そもそも個人や組織が人をどのように捉えるのか」という要素に依存している。

 

そして、この要素は「性善説」か「性悪説」のいずれかなのかによって、ほぼほぼ方向性が決定される。

 

つまり「性善説」で考えてる場合は、相対的にマネジメントにリソースを割く量が減るし、逆に「性悪説」は相対的に増える。

 

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今回のブログは「コストの面から性善説性悪説を考える」という趣旨であったが、僕個人としては、性善説の方が圧倒的にコストが減ると考えている。

 

だからこそ、もっと性善説で考える組織やビジネスパーソンが増えて欲しいと思う、今日この頃である。