準備とは。死と向き合うということ。

2019年1月2日の昼過ぎ。母方の祖母が旅立った。1月2日は祖母の誕生日でもあり、家族で祖母を祝った2時間後に最後はやってきた。

 

母が隙間時間を見て、小一時間の買い物に行き、帰ってきた後のことだった。母に様子を見といてと言われたので、僕は15分に1回は祖母を見ていた。そこには確かに生きている祖母がいた。母が帰ってくるまでに4回は確認をしていた。

 

母が戻ってきた。まだ祖母は息があった。

 

それから一時間。気づいたら息をしていない祖母がそこにいた。母がハッと気づいて様子を見に行ったタイミングで祖母の息が止まっていたらしい。

 

私たちは祖母の家、母の実家にいた。僕と弟はこたつにいた。母は台所と祖母の部屋を行き来していた。父親は祖父が亡くなった後の対応が残っていたらしく外に出ていた。

 

人が人の最後の瞬間に敏感になるのは、もしかしたら病院という環境がそうさせているのかもしれない。身体に繋がれたバイタルによるアラートが緊迫感を演出しているのはほぼ間違いない。私たちが落ち着いていたのは、これらの要因が抜け落ちてからかもしれない。

 

 

私たちが祖母の最後を覚悟し始めたのは2017年9月のことである。ガンが転移している事実を受け入れることにそう時間はかからなかった。

 

祖母自身も母も延命治療は望まなかった。緩和治療をもって、残り少ない時を充実させる方向を選んだ。

 

2017年11月には、人生最後の旅行ということで弟が住んでいることもあり京都旅行に行った。旅行が得意でない僕も流石につきそった。

 

死にいく人に僕は何が出来るのか - HOOZMのブログ

 

ここでも書いたように、僕は可能な限り実家に帰省しては祖母に会いに行っていた。

 

2018年12月は父方の祖父が旅立ったこともあり、東京と実家の熊本を3往復したのだが、その時ももちろん祖母に会いに訪れていた。

 

会話したのが懐かしい。しかし、祖母からその時に言われた一言はなかなか衝撃だった。

 

「もうダメだ。。」

 

「大丈夫だよ」とも僕は言えなかった。そもそも2017年の時点で医者からは「2018年を迎えることが出来ればいいほう」と言われていた。もって半年だと言われてもいた。

 

みんな2019年に祖母が生きているなんて思ってもいなかった。だからこそ2018年末のこの言葉には、確かな最後の予感を感じていた。

 

 

話は変わるが、祖母との最後の時間となる葬儀は今日と明日である。いわゆる家族葬となる。

 

祖母の母親は祖母が小さい時に亡くなり、祖母の夫、つまり母の父親は僕が小学生くらいの時に亡くなり、家族を空襲で全員失ったため親族もいなかった。母親の兄は東京で働いており、さきほど東京から到着したらしい。

 

だから葬儀に参列するものは僕の家族を含めて数名となる。祖母の家で葬儀を行うことは元々決まっていた。

 

祖母の息が止まった後の母は淡々としていた。かかりつけの看護師と医者に電話をかけ、葬儀屋に連絡をし、葬儀の段取りを手際よく行っていた。

 

その過程で、僕は初めて息のない人間の身体を持ち上げた。看護用のベッドに記載されていた体重30キロという数字はもしかしたら間違ってたのかもしれない。大人4人でかかえるにはあまりにも軽すぎるはずなのに、この前まで僕一人でおんぶが出来てたはずなのに、これまで経験したことのない重さを感じた。

 

今は父方の実家(僕が高校生まで住んでいた場所)の布団の中にいる。ご飯を食べて風呂に入った後に爆睡していたらしい。実は日をまたいだタイミングで起きてしまい、ふとこの文章を書き始めたにすぎない。

 

親父は寝ている。弟は居間で絵を描いている(だいたい実家帰省の時は朝方までやってるのが恒例なので通常運転)。

 

母もたぶん寝ているかもしれないし寝つけてないかもしれない。母の兄と二人で祖母の家にいる。2017年9月から毎日一人で祖母を看護し、毎晩1-2時間ごとに起きては祖母の状態を確認していたのだ。

 

そこから解放された約1年半ぶりの夜である。寝つけないのはこの長い期間で染み付いた生活習慣かもしれないし、別の感情が邪魔しているのかもしれない。

 

私たちは端からみると、かなり淡々としている。薄情だと思われるかもしれない。実際そうなのかもしれない。

 

2017年9月から覚悟をしてから、それなりの時間がたった。最初のほうは悲しさが強かったが、2018年末になると悲しさではない別の感情が僕にはあった。

 

母については、この期間毎日祖母の横で看護をしながら寝ていた。

 

夜になると「助けて」と祖母がずっと悲痛な声をあげている時期もあったらしい。「苦しまずに逝けて良かった」という母の言葉はたぶん本心だろうし、この時期を唯一知っているからの言葉だったのだろう。

 

私たちは、祖母の「死」について、意識はしてないものの各々がそれぞれなりに準備をしてきている。もっとも準備が出来ていたのは母だろうし、少なくとも日中は誰も涙を流しはしなかった。

 

薄情な話である。端から見ればその通りである。

 

しかし、まだ私たち、特に母にとってはまだ祖母の死はおわってはないのである。もし私たちが日中に泣いて何にも手をつけれない状態であれば、祖母を弔う葬儀の準備は何も進まない。それだけは回避しなければならなかった。

 

死と向き合うということは、本当に向き合っている親族からすれば、ただ故人を偲ぶだけというものでもないと私たちはおそらくみんな感じている。

 

何事も順番とタイミングがある。これらをまっとうするためには準備も必要である。

 

母は準備を最後まで怠らなかった。祖母の死に向き合い続けた。

 

僕は死に向き合うということを、この年末年始で考える時間が多かった。

 

どうやら、ただ偲ぶものでもないらしい。偲ぶためには、偲びたい心を抑えてやらなければいけないことをやる必要があるらしい。

 

これらの準備を終えて初めて、心置きなく最後に故人を偲ぶことが出来るのである。

 

そして私たちの準備が始まったのは、覚悟をした瞬間からであった。少なくとも僕にとってはそうであった。

 

僕は初めて「準備」の本当の意味を「死」をもって知れたのかもしれない。「準備」とは「覚悟」から始まるものだと今は思う。