主観と錯覚。無意識に縛られる私たち

※今回記載する内容はあくまで客観的に捉えた事象に関する話であり、その優劣については言及外です。優しい目で眺めてください。

 

昨今において、女性の権利についての言及をよく目にするようになった。いわゆるフェミニズムである。とりわけSNSでは、何かそういった人たちの機微に触れるものが見つかると爆発的な勢いで拡散している様子が毎日のように見受けられる。

 

元々のフェミニズムの始まりは、1792年にイギリスでメアリ・ウルストンクラフトが、フェミニズムの先駆けとなる『女性の権利の擁護』を執筆したことによるらしい。(Wikipediaより)

 

たしかに自分で生まれながらに選択出来ない性別によって、自分の権利を脅かされるのは問題である。(最近では中国のデザインベイビーが話題になったが、どこまで進化しても片方の性別しか選べないので、ここでは問題とならない。)

 

そして一般的にフェミニズムを推進しようとする方々をフェミニストと呼ぶ。その方々は日々「この国において基本的なものが男性優位で設計されており、女性の権利が脅かされている」という主張を繰り広げられている。たしかにそう思えるものもあったりもする。

 

ちなみに僕はこの文章において「そもそもの権利の定義」について話すつもりは毛頭ない。※この文章の結論は、この中において定義を議論することの意義が高いものではない、と示唆する内容にもなっていたりする予定だ。

 

さて、権利の定義が如何様であろうとも、フェミニストな方々は自分たちの権利を主張し、フェミニズムの推進を求める。まあ人間という生き物は自分の権利を主張する本能があるので何ら問題ではない。問題はないと思っていた。

 

しかし、最近になって、そもそも根本的な違和感を知ることになった。

 

知人に大学院でフェミニズムを研究した女性がいる。もともとは法学を学びながら、気づいたら研究をしていたらしい。先日飲み会でたまたま話をして教えてもらったのだが「実はフェミニズムを本当に最初に唱えたのは男性であった」らしい。

 

そもそも本当のフェミニズムとは「国家の効率化を目指す際に、男性と女性に役割を明確に持たせ、そしてその責務を全う出来るように女性にも権利を保障しなければならない」という話から始まったのだと。

 

だからこそ、そもそも男性目線で「権利を与えなければならない」という話であって、現代の女性が日々主張しているフェミニズムは元義からズレてるし、それは別の論理になるらしい。

 

ちなみに私はフェミニストの方々が間違ってるのかと言う話をしたかったわけではない。別に僕が決めたり、判断することではない。

 

ただ改めて、人は主観によって各々の主張を行う動物だとも感じている。

 

これだけでは問題ではない。問題になるのはこの主観を普遍的な真実であると錯覚してしまうことである。

 

話を少し変えてしまうのだが、僕はフェミニストが貧困問題について同じように唱えないことに違和感がある。

 

生まれながらにして選択出来ないのは、性別も生まれる場所と家庭も同じはずである。

 

もしかしたら、男女は同じ国家内における話であるので同じ権利であるべきだが、国境を越えれば違うのかもしれない。けどフェミニズムは国境を越えているし、同じ国内においても自分で選べなかったことによる貧困問題は多数ある。

 

ただ、この問いに対する答えはもう出ている。人は主観によって判断し、意思を主張するからである。主観に入らないものは無意識的に思考から排除されるのである。多くのフェミニストにとっては貧困問題は自分事ではないのであろう。

 

主観は無意識のうちに私たちから思考の可能性を奪っている。そして主観によって錯覚をさせられている。

 

これは知らない方が幸せなことかもしれない。自分の主観で構成された世界で生きることは心地の良いことだろう。

 

ただ、それで本当に良いのか。僕にとってはそれは正ではない。個人的な話であり、強要する話でもない。

 

それだけである。